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坂東千年王国


HON


V2掲示板過去ログ-22

451兵法故実 武門秀郷流藤原氏/10HON- 2005/06/17 22:57 -


歌人西行こと兵衛尉佐藤義清が遁世したのは二十三歳のときであった。鳥羽
院の北面に候し、院の中宮であった待賢門院璋子の兄の左大臣徳大寺実能の
家人とい立場を捨てて、一介の法師歌人となった。

頼朝が奥州征伐に就く三年前、鶴岡八幡へ参詣した頼朝は只者ならぬ気配の
老僧を見かけて梶原景季に尋問を命じると、それが西行法師であった。頼朝
は歌道や弓馬の道について尋ねたいとして、西行を一夜幕府へ招いた。頼朝
にとって歌道より弓馬のことを知りたかった。

そのころ秀郷流兵法故実は武家の間に伝説となっていた。将門の乱を鎮圧し
た秀郷流の兵法は、口伝や記録によって西行が出た秀郷嫡流の佐藤氏に伝承
されていると見なされていた。遁世して数十年後の西行といえども、それを
知らぬ訳がない、というのが頼朝の見込みであった。今や源氏の棟梁となり、
武家の棟梁を目指す頼朝は諸家に伝わる故実を聞き出して、祐筆に記録させ、
統合した武家の兵法故実を編もうとしていたのである。

弓馬と組打(相撲)を基本とするこの時代の武芸は、坂東武士の中で生まれた
ものの、その洗練された姿は都の近衛府の武官たちによって育まれてきた。
秀郷流佐藤氏は鎮守府将軍をはじめ近衛武官を代々歴任してきた。西行は出
家のときに嫡家相承の故実は焼いてしまったといいながら、夜中にいたるま
で問われるままに語り、頼朝はそれを筆記させたという。

西行が鎌倉あたりを徘徊していたのは他でもなく、重源上人の東大寺大仏再
建の勧進を手伝い、奥州平泉へ砂金の調達に出向いた途中であった。あえて
頼朝に藤家相伝の故実を語ったのは、その引替えに奥州への伝手を求めるた
めであった。

頼朝が自ら大軍を率いて奥州征伐に就いたのは三年後のことである。源氏累
代にわたる怨念の国陸奥、といってしまえばそれまでだが、弟義経を追討し、
平泉の藤原政権を打倒する以上に、武家の棟梁たらんとした頼朝の、それは
宿命的に課せられた奥州征伐であった。

義経の天才的な騎馬戦術は何処で身につけたか。伝説では京都の鞍馬山で兵
法を学んだとされるが、まさか鞍馬の寺で弓馬を学べる訳がない。それを学
んだ地は、鞍馬を追われて兄頼朝に逢うまで潜んだ奥州平泉に他ならない。

奥州は産金の国であると同時に馬飼いの国であった。産金は平泉の金色堂に
結晶しているが、馬飼いは交易馬として産金と同様に古代以来、畿内や坂東
武士の垂涎の的であった。そんな奥州で馬に乗らぬはずがない。

承和四年(834)といえば僧空海が没する前年だが、『続日本後紀』にいう

弓馬の戦闘は、蝦夷にとっては天性のもの、特技中の特技である。政府軍の
十をもってしても、その一にも敵することができない。

これが京都朝廷の公式の認識である。まるで蝦夷こそ北の騎馬民族である。
この百年後に将門の乱が起きた。奥州平泉政権の藤原氏は、蝦夷が投降帰順
した俘囚の安倍・清原氏と秀郷流藤原氏が統一されたものである。そして、
東夷(あずまえびす)と呼ばれた坂東武士は蝦夷の端くれに他ならない。

義経の騎馬戦術はこういう奥州でこそ身につけたものだ。鎌倉の頼朝政権が
武門の棟梁であろとしたとき、騎馬民族蝦夷の兵法を摂取しなければならな
かった。

450下野国小山氏 武門秀郷流藤原氏/09HON- 2005/06/16 20:38 -


下野国にあって藤姓足利氏と並んで「一国の両虎」とよばれたのが小山氏て゛
あった。嫡宗の足利氏に対して、小山氏は庶流といえども下野国衙の在庁官
人であったことが強みであった。そのためであろうか、下野守を務めた源義
朝の子頼朝が生まれたとき、小山氏は乳母夫になった。

それに対して藤姓足利氏は平氏の庇護をうけ、以仁王を担いだ摂津源氏頼政
が挙兵したとき、宇治川先陣の功を挙げた。その戦功に対して平清盛が足利
俊綱に検非違使か受領を与えようとしたが、俊綱は上野国の大介職と新田荘
を望んだ。新田荘は源姓足利氏の本領であり、大介職は国衙在庁官人の最有
力の地位である。源姓足利氏の本領を取り上げ、上野国に散在する藤姓足利
氏の庶流を公法的に束ねようとしたのである。

清盛は「安き事」として許可しようとしたところ、庶流の面々は嫡宗だけに
恩賞を与えるのは不公平とばかりに騒ぎ出す始末であった。それほど藤姓足
利氏の統率力は失なわれていたのであった。

以仁王の令旨によって各地の源氏が挙兵すると、足利俊綱は平家方に着き、
源氏勢力がいた上野国府を焼き払って国衙の実力支配を企てた。ところが、
信州木曾谷に挙兵した義仲が上野国に進軍すると、藤姓足利氏の庶流の一部
が義仲軍に加わってしまった。

相模の源頼朝に対抗して坂東の棟梁を目指した常陸源氏の志田義広の挙兵に、
周囲の頼朝方の勢力を打破すべく足利俊綱は応じた。しかし、藤姓足利氏の
庶流たちは足利嫡宗の劣勢を悟って俊綱から離反してしまった。

藤姓足利氏の庶流たちは俊綱を見限って、下野国衙の在庁官人たる小山氏の
軍事催促に応じ、三万余騎という志田軍を撃破、俊綱は平氏の西海へ逃亡し
ようとしたが、従郎に殺されてしまった。

小山氏が下野国衙の在庁官人であったのは、秀郷の先祖以来の世襲に基づい
ていた。小山氏祖の政光の妻寒河尼は下野国一宮二荒山神社社家の宇都宮氏
の出で、頼朝の乳母であった。

頼朝の坂東武士団の支配の仕方は極めて政治的であった。頼朝の地位を脅か
しかねない大武士団を分断して、家督を継ぐ嫡宗などの武士団をを解体して、
庶流の武士団を援護するという手法である。小山氏の対足利・志田連合軍に
対しても頼朝は弟の範頼を援軍としておくった。

頼朝一家の乳母夫というのは数多くいるが、幕府の内訌によって次々に淘汰
それていったの対し、この小山氏だけは紛争に巻き込まれることもなく立ち
回り、生き残った数少ない秀郷流藤原氏の一氏であった。小山政光の子朝光
は結城氏を名乗り、その子孫は戦国時代まで続いた。

秀吉の小田原城攻めの後、家康の次男秀康を秀吉の養子としたとき、名跡を
惜しんで結城氏を名乗らせた。それ以前、家康が従五位下三河守を叙爵され
たとき、同時に藤原氏を名乗ったことがあった。源姓足利氏の子孫と称した
のと同様、出任せであったとしても、家康が藤氏を称したのは摂関家の藤原
であるよりも、武門秀郷流藤原氏が念頭にあったのでないか。

449藤姓足利氏 武門秀郷流藤原氏/08HON- 2005/06/14 20:39 -


足利氏といえば清和源氏の庶流だが、元来は秀郷流藤原氏の家督を継いだ藤
姓足利氏もいた。いうまでもなく下野国の藤原兼光の子孫で、曾孫の成行が
足利大夫を称し、その子孫庶流一族は上野国まで勢力を拡大していた。

源頼義・義家父子の奥州攻めのとき、前九年の役の終了直後、義家は出羽守
に次いで下野守に任じられた。下野守のとき足利氏庶流の佐野氏の娘に生ま
せたのが三男の義国であった。

義国が成人して上洛すると、父の八幡太郎義家の武名の御蔭で官途は順調に
進んで、従五位下加賀介までいった。下野へ戻った義国は唯一父義家の遺領
である下野梁田郡の所領を基盤に、周辺の荒地を開拓した。

その土地は母方の藤姓足利氏の勢力範囲であったが、藤氏は同族の女が生ん
だ子だからと、義国の仕業を大目に見ていた。義国はさらに開拓の手を広げ、
藤姓足利氏の本領に属した足利郡におよんだ。しかも、義国のやったことは
足利郡の開拓地を鳥羽法皇の安楽寿院に寄進して足利荘とし、梁田郡の所領
も伊勢神宮の御厨として立荘したことである。

ここまで来ると藤姓足利氏は義国の横領に対して黙ってはいない。そのころ
足利前式部大夫を名乗っていた義国を訴え、梁田御厨をめぐって裁判沙汰と
なった。長引く訴訟事件の間、義国は表向きは隠居の姿勢を見せながら、嫡
男義重を使って今度は渡良瀬川の対岸、上野国の新田郡を開発させた。その
地も藤姓足利氏の庶流淵名氏の勢力圏に属した。

最早、藤姓足利氏と源姓足利氏の係争は武力解決しかない。地理的・勢力的
にみて圧倒的に藤姓足利氏に有利であったが、たまたま一族を束ねる足利家
綱が死んで嫡男の俊綱が家督を継いだため、庶流が台頭して結束がゆるんだ。
なかでも「一国の両虎」と並び称された下野小山荘の小山氏は藤姓足利氏か
ら離反した。

このころ板東は各地に武士団が乱立して、相互に利害対立や同盟関係を持つ
など複雑な状態にあった。

藤姓足利氏は利根川対岸の武蔵国の秩父平氏河越氏と同盟して、源姓足利氏
に対抗した。当時、河越重隆は秩父平氏の家督と武蔵国留守所総検校職を握
っていた。

そのため秩父氏の中で嫡流であった畠山重能は、相模国三浦の義明の女と婚
姻によって同盟し、また義明の女を母に生まれた源義朝の子義平は源姓足利
氏の義国の子新田義重の婿となった。

さらに源氏の義朝の弟次郎義賢が上野国に、三郎義広が常陸国に来て、鎌倉
の義朝・義平父子に対抗した。この義賢を女婿に招いたのが河越重隆であっ
たから、板東の北と南で勢力争いとなった。

そんな折、紛争の種を蒔いた源姓足利氏の義国が突然死んだ。この直後、鎌
倉の義平は武蔵比企郡にある河越重隆の大蔵館を奇襲して、叔父義賢と重隆
を討取った。保元の乱の前夜の事である。

448奥州藤原政権誕生 武門秀郷流藤原氏/07HON- 2005/06/12 19:47 -


前九年の役から二十余年後、再び陸奥国で後三年の役が起った。

安陪氏に換わって陸奥の支配権を握った清原氏の内部で、お家騒動のごとき
内攻が生じたのが切っ掛けである。

それまで部族連合のごとくだった清原氏は、前九年の役に勝って鎮守府将軍
に任じられた清原武則の孫真衡の代になると、嫡宗単独支配を目指した。し
かし清原氏は真衡が先妻の子で、清衡は前九年の役で殺されたを藤原経清の
妻の連れ子で、さらに弟の家衡が生まれるという複雑さであった。

先妻の子で嫡宗の真衡と後妻の子の経清・家衡に分かれて対立したところ、
真衡側は経清・家衡らの攻撃を国司に対する攻撃にすり替えようと策した。

前九年の役に父源頼義と供に戦って何ら得るもののなかった義家は、このと
き陸奥守兼鎮守府将軍に補任され、陸奥国の清原氏宗主権の上に立とうとし
て、対立する両勢力を二分して支配する調停者の立場に立った。

しかし、嫡宗単独支配を目指す真衡は義家の調停に納得せず、経清の妻子・
眷属を攻め殺してしまった。辛うじて逃げた経清は義家に忠誠を誓い、かく
して清原氏の内攻は源氏対清原氏の数年におよぶ戦争へと突入したのが後三
年の役であった。

ところが清原真衡を倒した源義家の戦功を朝廷は評価せず、義家の私戦と見
なし、陸奥守も解任された。そして陸奥・出羽国の支配権は労せずして藤原
経清の手に帰したことだった。陸奥国藤原政権の誕生である。

何故、源義家は後三年の役を引き起こしたのか。父頼義の無念を晴らそうと
したというだけでは説明がつかない。

義家が後三年の役を戦っていた最中、白河院政が始まっていた。戦いが終わ
って十年後、義家はようやく院昇殿を許される。それまで、戦勝の恩賞はお
ろか、義家が兵を率いて入京することや、義家に対する田畑の寄進が禁じら
れていた。義家は白河院から徹底的に嫌われ、疎外されていたのである。

白河が天皇として在位中、皇太子はいなかった。誕生した男子は早死し、一
時、異腹の弟実仁が立太子したが間もなく病死した。その弟に三宮輔仁がい
て、彼等兄弟の父後三条院は実仁即位の後は輔仁を皇太子とすべく遺言して
いた。ようやく白河に男子善仁が生まれたものの、重病となると「天下、三
宮輔仁に帰す」という状況になり、白河と輔仁の間に緊張関係が生じた。

輔仁親王を支持したのは、三条院以来の院政によって政権から押しやられた
摂関家に換わって、台頭した村上源氏であった。そして、源義家も輔仁に仕
えたばかりでなく、娘を差し出して二人の間に生まれた子は園城寺に入って
法眼行恵となり、その子の円暁は義家の子孫頼朝に八幡宮の再建に呼び出さ
れている。

白河は退位すると、八歳の善仁を皇太子に、即日堀川天皇として即位させた。
義家が陸奥で清原氏を倒す一年前のことである。

輔仁に仕える義家の武力に人々の期待が集まり、義家は諸国の、とりわけ板
東に台頭した武家を糾合すべく、陸奥国攻撃に踏み切ったのであった。

その結果、義家の戦いは公戦と見なされず、白河院から遠避けられたのは当
然であり、十年後に遂に膝を屈し、平氏に遅れて院昇殿を許された。その後、
輔仁親王は閉門、村上源氏は出仕を止められた。村上源氏から出た輔仁の護
持僧仁寛一味が、天皇暗殺を企んだとして伊豆へ流された。

義家の後三年の役の結果生まれた奥州藤原政権は、その後、摂関家に貢馬し
て従臣、その権威を背景に三代にわたり続いた。頼朝の再度の奥州攻めまで。

447奥州藤原氏の祖 武門秀郷流藤原氏/06HON- 2005/06/12 19:47 -


奥州平泉に政権を樹立した藤原氏の出自が秀郷流であることは、今日では通
説化している。秀郷から七代目の兼光の孫藤原経清に始まる。

経清は父頼遠の代から下総国住人あったが、源頼義の前任の陸奥守藤原登任
の郎党として下向、安陪頼良(頼時)の女婿となった。郎党といっても経清は
亘理権守と称する系図もあるから、おそらく陸奥国司の一員であったろう。

陸奥国は大和政権の奥羽支配に投降・帰順した蝦夷を俘囚として、律令制の
外部に自治区とした独立地域である。安陪氏は代々俘囚長の家柄であった。
それを律令政権側が陸奥国司を兼ねた軍政府としての鎮守府将軍によって監
督していた。俘囚長は鎮守府の在庁官人でもあったから、実質的に在地の支
配者になる。

秀郷流藤原氏は代々鎮守府将軍に任じられ、経清の祖父兼光もその任にあり、
また叔父の左馬充藤原行範は御馬交易使として陸奥馬廿匹を得ているくらい
だから、藤原氏は陸奥国に一定の勢力と権益を有していた。

この俘囚長安陪氏が租税を怠り、課役を拒否、さらに境の衣川を越えて支配
地を拡大しようとしたとて、事態を旧に復すべく陸奥守藤原登任と出羽城介
平繁成を派遣したものの、散々な負け戦となった。そこで起用されたのが陸
奥守兼鎮守府将軍に任じられた源頼義であった。十二年間におよぶ前九年の
役の開戦である。

安陪頼良は頼義の出陣に対して衣川の関を閉めた。この時点で陸奥は旧に復
したはずであり、頼義の役目は終わったはずであった。それでも頼義は容赦
なく攻めた。藤原経清が頼義の攻撃軍から離反して、姑の安陪頼良の客将と
なったのはこの時からであった。翌年、頼良が戦死すると、その後の陸奥俘
囚軍の指揮を執ったのは経清であった。

源頼義が出羽国の俘囚清原光頼・武則兄弟に三顧の礼をつくして援軍を請い、
ようやく陸奥俘囚軍を鎮圧したとき、捕らえた藤原経清の首を鈍刀をもって
何度も打ち据えるように斬り殺した。

その後、経清の妻は経清の子清衡を連れて清原武則の子の武貞と再婚した。
前九年の役の勝者は源頼義ではなく、鎮守府将軍に任じられた清原武則であ
った。

446相模国波多野氏 武門秀郷流藤原氏/05HON- 2005/06/08 23:18 -


東海道が足柄峠を越えて坂東に通じていたころ相模国衙は丹沢山麓にあり、
その近くに秀郷流の波多野氏がいた。といっても波多野氏祖の経範の母は佐
伯氏で、秀郷から六代孫の相模守藤原公光の婿となって藤原氏に改姓したも
ので、波多野荘の現地管理人として相模国へ下向した。

佐伯経範は鎌倉に源氏の拠点を得た頼義に父経資の代から仕え、頼義の奥州
攻めに際、安倍貞任の陣へ突入して討死した。この戦いで、安倍頼時の娘婿
となった奥州藤原氏の祖経清が捕まって殺されているから、秀郷流藤原氏は
敵味方に別れて戦っていたことになる。

この佐伯=波多野氏と源氏の主従関係は何処で生じたのか。

波多野荘は関白藤原師実の室、冷泉宮トシ子領であった。トシ子の父は三条天皇
の嫡子敦明親王、母は左大臣藤原顕光の女延子である。このころ藤原道長の
全盛時代で、道長の娘彰子が生んだ一条天皇の子敦成親王にまた道長の娘威
子を配た。三条天皇は敦明を皇太子とする条件で敦成=後一条へ譲位した。

ところが三条が没した翌年、道長は敦明に圧力をかけて廃太子してしまった。
そのときの条件は、またもや道長の娘寛子を敦明に配し、さらに小一条院と
いう院号によって前天皇待遇を与えられ、道長に手なづけられてしまったの
である。小一条院敦明は前妻の藤原顕光の女延子を見放してしまったという。

この小一条院の判官代を務めたのが源頼義であった。頼義は院判官代の実績
によって相模守に任じられ、坂東平氏流で北条氏の祖平直方の娘婿となり、
鎌倉の館を譲与されたのである。

小一条院の娘で冷泉宮トシ子領の波多野荘司佐伯経範との主従関係が生じたの
はこのころであろう。そして頼義が陸奥守に任じられたのは、小一条院が没
した後のことであった。

波多野氏と源氏がさらに関係深くなるのは、経範の子孫の波多野義通の妹が
頼義の子孫の義朝の子朝長を生んでからであった。義通は保元の乱に義朝に
属し、敗走した義朝の幼い弟たちを涙ながらに斬首した。

445平忠常の乱の時 武門秀郷流藤原氏/04HON- 2005/06/07 20:20 -


都の秀郷流藤原氏は秀郷の子千晴がいきなり挫折したものの、そのまま撤退
したわけではなく、弟の千常の子孫が中央の武家として後世まで続いて佐藤
氏を名乗り、摂関家に仕え、白河院時代には北面の武士を務め、そこから歌
人西行を出した。

武門としての秀郷流藤原氏は千常の孫の藤原兼光が二度まで鎮守府将軍を務
めた後、坂東に下って下野国に土着した。

その頃、中央政府の方針は国司の請負制によって地方支配を担わせるように
なったことから収奪が強行され、在地の私営田領主との間に紛争が少なくな
かった。私営田領主たちも農民層の成長に伴なって広範囲な在地領主となっ
ていった。

そのため坂東の房総三国では将門の乱をはるかにしのぐ大規模な平忠常の乱
が起きた。忠常は安房国司を焼殺して国家的叛乱へ発展した。

忠常は将門の系譜に連なる良文流の子孫で、下総の国住人といわれ上総・下
総を支配するた豪族である。

房総は秀郷と伴に将門の乱を鎮圧した平貞盛流の基盤でもあり、その子孫の
平直方が関白藤原頼通に仕えて追討使に任命された。

坂東平氏の内輪もめであったが、坂東全域を巻き込んだ叛乱は四年間におよ
んだ。しかし、忠常自身は反国衙的であっても中央政府に対する謀反の意志
はなかったらしく、私君の内大臣藤原教通に弁明の使者を送ったりしていた。

また、忠常は上総の山中に随兵と伴に布陣していたが、下野の藤原兼光を通
じて追討使に講和への意志を伝えていた。乱の収拾に苦慮した政府は兼光に
忠常の所在を問い質そうとしたが、追討使平直方を更迭して、代わって甲斐
守の源頼信が起用した。頼信がかつて常陸介として下向したとき、忠常は名
簿を奉って従臣していたからである。

かくて忠常は一兵も動かさず忠常を投降させ、坂東平氏に代わって清和源氏
の名を坂東に定着させた。平直方は頼信の子頼義を娘婿に迎え、鎌倉の館を
譲与した。

乱の後、藤原兼光は忠常の乱への同与を疑われて出家したという。この兼光
の孫の経清が奥州の安倍頼時の娘婿となって、奥州藤原氏の祖となった。

鎌倉の源頼義が引き起こした奥州攻め、前九年の役の終わりに捕らえられて
惨殺されることになる。

444安和の変 武門秀郷流藤原氏/03HON- 2005/06/02 16:54 -


平将門が中央の藤原忠平に仕えていたような、藤原秀郷も当時は権中納言で
醍醐源氏の高明に仕えていたから、都へ上った秀郷の子の千晴も同様に高明
に仕えた。

千晴は坂東では相模権介に任じられたが、京では康保四年(967)の村上天皇
崩御の際、清和源氏の満仲と伴に固関使に任じられ、伊勢の鈴鹿関を固める
ために派遣された。そのとき源満仲は病気を理由に役目を辞退した。

この一年半後、源満仲と前武蔵介藤原善時によって密告された安和の変がお
きた。左大臣源高明とその与党が天皇を傾けんとしたとして遠流に処せられ
た。高明に仕えていた千晴・久頼父子とその随兵らも、満仲の弟で検非違使
の源満季によって検挙・禁獄され、隠岐国へ流されてしまった。

当時、村上天皇の跡を継いだ冷泉には子供がなく、しかも精神的疾患が出て
いたことから、皇太子は弟の為平親王が有力な候補と見なされていた。その
為平は源高明の娘婿であったから、為平が皇太弟から即位すれば高明が外威
の地位が回ることになる。

ところが冷泉にはもう一人弟の守平親王がいて、関白藤原実頼は村上天皇の
生前の意向だとして守平の立太子を挙行し、その東宮傳に実頼の弟師尹が就
いた。師尹は既に娘を冷泉女御にいれていて、間もなく男児を生んだ。

皇位継承が冷泉の子であれ、守平親王であっても関白家の地位は揺るがない。
為平親王を推する源高明とその与党が坂東に奔って挙兵する謀反を企てた、
と源満仲が密告したのはその五ヶ月後であった。

謀反の計画が事実なら、その勢力は高明に仕えた秀郷流藤原氏千晴が培った
下野はじめ相模や武蔵国の勢力であろう。将門の乱を鎮圧した勢力である。

一般に安和の変は摂関家の走狗と化した源満仲の陰謀であり、でっち上げた
事件てはないかとされる。しかし、それほど単純なものではない。

源高明は醍醐源氏であり、村上天皇の弟にあたる。後年、後醍醐天皇が村上
の治世を「天皇親政」と誤解したように、偶然の結果ではあったが約三十年
の王位の間は摂関が置かれることはなかった。高明の推する為平親王が擁立
されると、再び藤原氏の摂関就任はあやしくなりかねない。高明を省くこと
でその後の藤原摂関家の安泰が約束されたのである。

そして、将門の乱以降、政治的紛争に武家の武力解決が一般に認知され始め
た矢先、都で源氏と平氏に並んでいた秀郷流藤原氏は躓いたのであった。

443武蔵国の権益 武門秀郷流藤原氏/02HON- 2005/05/30 22:02-


将門の乱を鎮圧した藤原秀郷はその功によって従四位下下野守、ついで武蔵
守に叙任された。将門の首は京へ運ばれたが、秀郷自身は上洛した形跡はな
く、使者が発った。おそらく秀郷の嫡男千晴であったろう。

千晴は相模権介に任じられ、その後、前武蔵権介平義盛と係争をおこして、
安和元年(968)朝廷から罪状の調査と尋問が行われ、平義盛の非が確認され
ている。

平義盛の名は系図には載らないが、盛の通字が同じ平貞盛や繁盛の兄弟と見
なせるから、伴に将門の乱を鎮圧した豪族同志が今度は勢力争いを引き起こ
しことになる。

多摩郡府中の武蔵国衙の近くにある高安寺境内に秀郷明神が祭られているが、
秀郷が扶植した武蔵国の勢力や権益を継承した千晴が何らかの行動を起こし
て係争におよんだのであろう。

千晴が係争で調べられた同じ年の末、今度は信濃国から千晴の弟の千常の乱
が奏上されている。さらに、約十年後、下野国が前武蔵介藤原千常と源肥が
合戦におよんだという解文を奏上している。

千常の母は源通女とされるから、源肥と同様に一字名の嵯峨源氏の一員とす
れば、武蔵国の箕田にいた箕田源二に関わり、下野国を根拠とする秀郷流藤
原氏の武蔵国進出は顕著となる。

将門の乱の当時、清和源氏の祖源経基が武蔵介で、将門謀反を最初に訴えた。
経基の嫡男満仲は武蔵守藤原敦有女を母として、武蔵介・守を歴任、同母弟
の満季も武蔵守に就いて、武蔵国へ並々ならぬ関心を持っていた。

将門の乱後、武蔵国は秀郷流と清和源氏の勢力争いの場となったのである。
そしてこの決着は京都において、謀反密告という安和の変であった。

442利仁将軍伝説 武門秀郷流藤原氏/01HON- 2005/05/28 19:31 -


藤原秀郷には百足退治をした「田原藤太」伝説などあるが、秀郷流藤原氏を
武門としてその名を伝説化させたのは、秀郷と同じ藤原北家の魚名流から出
た利仁将軍伝説の影響が少なくない。

藤原利仁は天慶三年(940)に鎮圧された将門の乱より少し前の時代の軍事貴
族である。父は民部卿藤原時長、母は越前国の秦豊国の女で、越前の豪族有
仁の女婿にむかえられた。祖父高房も越前守の官歴をもっていて、歴代にわ
たって越前に縁がある。

利仁は『尊卑分脈』によると、延喜十一(911)に上野介に任じられ、その後
は上総・武蔵の国司等を歴任し、延喜十五(915)に鎮守府将軍となった。生
没年は不明だある。

芥川龍之介の小説『芋粥』に登場する、貧乏人の都人五位の侍を越前の田舎
の館に招かれて芋粥をご馳走になった人物こそ利仁将軍であったが、そのモ
デルは『今昔物語』にある。

同書には藤原利仁が朝命に従わない新羅を征伐する将軍に起用された話も載
る。それを事前に知った新羅は、宋の法全阿闍梨に調伏を依頼し、そのため
利仁は出征途上で頓死したという。

また『鞍馬蓋寺縁起』の利仁は下野国高座山の群盗征伐譚だが、追討将軍に
選ばれた利仁は困難を思って、あらかじめ鞍馬山の毘沙門天王に参詣して示
現を得てから出発し、群盗を退治したことによって武名は天下にとどろいた
という。

新羅征伐や群盗退治とは、いずれも王化に従わない朝敵を討伐するというの
が利仁将軍伝説である。それは正に都から来た軍事貴族の姿に他ならない。
そして都の軍事貴族を在地で受入れたのが、越前の裕福な豪族のように、在
地の土豪たちであった。武士の祖形というなら、こうした軍事貴族と在地の
富豪の間にこそ生まれたのである。

利仁将軍が群盗を退治した下野国高座山の比定地は何箇所かあるが、その一
つ、栃木県河内郡上河内村には利仁将軍を祭神とする関白神社がある。そし
て、下野国衙に歴代在庁官人の権益を得たのが藤原秀郷の父祖たちであり、
秀郷の曾孫の文行の母は利仁女とまで『尊卑分脈』に註記された。

利仁将軍がその武威伝説を扶植した下野国こそ、後々まで武門秀郷流藤原氏
の根拠地となった。

441武門秀郷流藤原氏HON- 2005/05/26 19:32 -


清和源氏の頼朝は平氏打倒の旗印の許に挙兵し、その平氏を西海に沈めても、
武門の棟梁にはなれなかった。奥州藤原氏を倒すまでは。

奥州藤原氏とは、蝦夷の系譜を引くと同時に、その名が表わすごとく藤原氏、
それも武門秀郷流藤原氏の流れでもあった。鎌倉政権樹立を源・平合戦に勝
利した結果と見るのは、事の半分しか見ていない。平氏打倒へ頼朝自身が西
海へ就かなかっ理由は、東北陸奥の藤原氏の動きを警戒して、鎌倉から動け
なかったことによる。

それ故、平氏が滅んだ後、奥州攻めには頼朝自身が大将となって出陣したこ
とが、それをよく表わしている。奥州藤原氏を倒さねば、頼朝は武門の棟梁
にはなれなかった。

この秀郷流藤原氏は、坂東平氏がそうであるように、様々な流派に分かれて、
頼朝の旗下にいた一族もあり、一様ではない。奥州藤原氏が頼朝の最期の強
敵なったのは、その地理的な所在もさることながら、それまで平氏にも、源
氏にも出来なかった、一個の独立した奥州王国を形成していたことによろう。

武家の台頭時期を平将門の乱とすれば、それを鎮圧したのが藤原秀郷である。
鎌倉中心主義から離れて、この秀郷流藤原氏の諸族を見直してみたい。

440ウサギのフン? じゃなくてHON- 2005/05/21 19:12 -


見かけはウサギかムササビのフン、てとこですが
もうちょっとどころか、かなりマシなもので
浜松の近くにある三ヶ日町大福寺の「浜納豆」です。

乾燥納豆ともいわれているそうで、
ふつうの糸引き納豆とはぜんぜんちがう。
味噌を丸めて少し乾燥させたようなものです。

戦国の携行食の一つでもあったらしく
家康も大好物だったとか。
他所では京都の大徳寺にしかないらしい。

オニギリの種はむろん、あったかいご飯にのせて
またお酒のおつまみにもなり、塩なめるよりいい。

若いお嬢さんから御年配の方まで試食してもらったら
たいへん好評でした。

浜納豆は400〜600年ぐらいの伝統があるそうですが
それ以前、奈良の大仏ができたときに渡来した鑑真和上は
乾燥納豆のような携帯味噌を持ってきたそうです。

ところが味噌の歴史はもっと古く
どんぐりで作った「縄文みそ」というのがあるそうです。

穂国幻史考管理人さん 珍しいものを有難うございました。
今度、なめると糸引く茨城特産の乾燥納豆を調達します。

味噌の歴史 http://www.miso.or.jp/dictionary/history/index.html

浜納豆 http://www.hamamatsu-cci.or.jp/industry/number_one/11_natto/11c_natto.html

439児玉党の前身HON- 2005/05/17 21:19 -


武蔵七党児玉党は藤原摂関家の伊周が有道氏の女との間に生まれた遠峯が武蔵
国へ下って児玉庄を開いたという説と、伊周に仕えた有道維能が武蔵介として
児玉庄を開いたという説がある。

伊周は叔父の藤原道長と競って敗れ大宰府へ流されたが、その直接の切っ掛け
は、自分が通っていた女に間男した者がいて、その男に射掛けたら、何と花山
法皇であり、しかも間男ではなく、伊周の相手の姉妹に花山法皇も通っていた
ことが判ったことだった。道長は伊周の失態を見て、すかさず伊周を大宰府へ
流してしまったのである。

伊周と花山法皇が通っていた姉妹が有道氏の女であったなら面白いのだが、生
憎そういう証拠はない。

とはいえ、児玉党が有道氏に始まることには変りなく、在地に有氏明神を祭っ
ていた。この有道氏とは何者なのか、ほとんど問題にされていないので、考え
てみた。

有道氏の元は古代氏族の丈部(はせつかいべ)であった。丈部は杖部、あるいは
丈は馳使にも作ることから、その意味は二説ある。馳使から雑用の走り使いと
され、また杖部から埼玉の稲荷山古墳出土の鉄剣にあった「杖刀人」に通じる
軍事的性格の強い者ともいわれる。

いずれにしても丈部氏は主に東国にかなりいた。そのなかで、常陸国筑波郡等
の丈部氏四人が天長十年(833)に有道宿禰を賜った。そして翌年には四人の内
で一品葛原親王親王家の家令だった外従五位下有道宿禰氏道は左京七条に還付
されている。

ここまでなら有道氏は地方から登った平均的な下級貴族である。注目すへきは、
丈部氏が有道宿禰を賜姓する以前、平安京で大仏建立事業が進行していたとき、
陸奥国から黄金が出たという報せがもたらされたが、陸奥国小田郡から黄金を
獲た殊功者は丈部大麻呂で、天平感宝元年(749)無位から五位下に直叙された。
黄金が出たというこの場所は後に黄金神社になった。

大麻呂は上総の人というから、わざわざ陸奥国まで出向いて黄金を獲たことに
なる。偶然にしては出来すぎな話で、丈部氏はそういう業を持っていたと見な
せるのではないか。つまり、産金・採金の業を。

児玉党は利根川支流の神流川沿いに発祥した。そこは秩父の銅山に加えて丹沙
と砂金の山地であったのである。

438祭と参詣HON- 2005/05/15 22:41 -


各地の神社で夏祭りが始まっている。氏子でもなければ祭りは見物するもの
であり、自ら出かける参詣とは異なる。この違いはどこからきたのか。

神社がある程度の形式を持つようになったのは氏神社になってからである。
といっても、その時点で神社に社殿が造られたか否かは関係ない。ある特定

の神が氏族の氏神として祭られたという意味である。だから神社の信者を氏
子というのは、そのときからのことであった。従がって、特定の氏族に属さ
ない者は氏子でないのは当たり前である。

氏神社としての神社は、氏族が結束して保たれた間だけ健在であった。そこ
へ氏子でない者、あるいは他の氏族に属する者が参詣するなどということは
有り得なかった。

それは、神社に祭る神、氏神の有り方、神というものの捉え方に関わる問題
でもある。

神社とされる場所が確定されていたとしても、そこに神が常駐するという発
想はなかったのではないか。神は祭のときのみ、何処からか招かれた。その
祭には氏神を信ずる氏子しか参加できない。祭がおわれば神は去ってしまう。

それ故、神社に神が祭られているといっても、それは祭日の間だけのことで
あった。祭日意外に神社へ参詣しても、神はそこにはいないのだ。

氏神を祭る氏族が分裂・解体するとき、神は変質し、神社もまた生き残るた
めに変らざるを得ない。氏神社を支えた氏子が散ってしまったなら、それに
代わる氏子意外の者でも、祭日でもないのに参詣を許さねばならない。そし
て、いつもそこにいるはずもなかった神もまた常駐することとされた。

神社の側が勝手にそうしたはずはない。氏子でもないのに参詣する側にも、
それを受入れる観念が生まれなければ不可能なことだからである。

何がそうさせたのか。

その神社の氏子でもない者も、自分が属する氏族の氏神があり、氏子でもあ
ったはずである。それにも関わらず他の氏族の氏神社に参詣するということ
は、既に自分が属した氏族は分裂・解体していたことを意味する。

だからといって異族の氏神社に詣でるという観念を生ませたものは、何処か
ら生まれたのか。参詣した先の氏神社の氏族も分裂・解体しているのだから、
その異族に属したいという願望を持った訳でもなかろう。

それぞれの神社が祭る神と神の間に、何かしら同質性のようなものがあると
いう観念がなければ、異族が祭った氏神社へ詣でるはずがない。そんな観念
をもたらしたのは、必ずしも神社が祭る神に対する観念ばかりでなく、神と
仏は同体とする神仏習合によってもたらされた。

元来、仏を祭る寺院への参詣は法要など特定の祭日とは限らなかったから、
その仏と神は同体とする神仏習合を受入れれば、異族が祭った氏神社もまた
容易に許容されたのである。また、寺院の末寺を建立することに倣って、神
社もまた氏族中心の神観念にとらわれることなく勧請されるようになった。

こうした現象の歴史的な象徴として、宇多上皇にはじまり白河上皇によって
火のついた熱狂的な熊野御幸がある。天皇家の氏神は伊勢神宮であったにも
関わらず、伊勢神と熊野神は同体と故事付けてまで、それは強行されたばか
りでなく、新熊野社として遠隔地へも勧請された。

それまで熊野三山は特定の氏族の氏神社でなく、修験霊場だったことがそれ
を容易にしたと思われるが、いずれにしても熊野詣では神社信仰の有り方を
一変させた。

神社信仰の対象が氏族中心から解放され、それを勧請することが容易に受け
入れられると、神社の格付けも変わったはずである。諸国の一宮制や総社の
創建もまた、こうした現象を背景に進行したもとみなせる。

その時期が摂関政治から治天の君による院政期で、氏族の縛りから解放され
て自己責任と自己救済を精神の根底においた武家の台頭した時でもあった。

それでも神社の祭はつづけられ、その結果、氏子と見物人に分裂した。

437多摩の多米氏/5HON- 2005/05/14 21:23-


日奉部が中臣=藤原氏の支配下にあって、どういう形で日祀祭儀を行ってい
たのか、具体的なことは分からない。中臣=藤原氏自身の前身は卜部に他な
らないとしても、日奉部も卜占を業としたとは限らない。

ただ、日奉部が古墳時代終末期から府中の国衙に近い日野にいたとすれば、
国衙の在庁官人となり、平安末期には武蔵七党武士団の西(日奉)党となって、
多摩郡では武蔵国造なきあとの一貫して存在した一族ということになる。

多摩郡の在庁官人としては、国衙周辺では同じ武蔵七党武士団の横山党小野
氏がいて、武蔵総社六所宮にも関わり深いが、何せ日奉部に比べて武蔵国に
関わるのは遅く、武蔵国造族との接点が少ない。

小野氏は近江国の小野氏の子孫と称している。大和国の天香山坐櫛真命神社
と同神とされる太詔戸命神が小野氏が出た三輪山の西北の麓、添上郡の丸邇
氏勢力圏に祭られている。そして、その同じ神の大麻止乃豆乃天神社が武蔵
総社六所宮と多摩川を挟んだ対岸にある。

どうみても小野氏の方に大麻止乃豆乃天神社との関わりが深いのである。こ
れを多摩の多米氏との関係で整合性を考えると、どうなるか。

「多氷」屯倉が多米屯倉だとすれば、多米氏は多摩にいた旧武蔵国造の末で
あり、平安時代まで多摩郡にいた。そこへ国司の小野氏が土着して、多米氏
の女に子供が生まれ、父系の小野氏を名乗り、武蔵七党武士団の横山党にな
った。そしていつしか「多米氏」の名は忘れられた、のではないか。

436多摩の多米氏/4HON- 2005/05/10 21:43 -


多米氏はいずれの神統譜でも神魂命神の子天日鷲命の子孫とする。天日鷲命
は阿波国忌部の祖でもある。大阪の住吉区長居西にある神須牟地神社に天日
鷲命が祭られているが、境外末社として式内社の多米神社がある。別名を苗
見神社とも種貸神社とも言われる。おそらく摂津国の多米連氏が祭っていた
のであろう。

この多米氏が武蔵国にいて多摩の元武蔵国造の子孫だとしたら、どうなるか。

『古事記』の系譜によると、出雲国造、无邪志国造、上菟上国造、下菟上国
造、伊自牟国造、津島県直、遠江国造等の祖は天菩比命の子の建比良鳥命と
する。

无邪志(武蔵)国造にならんで上菟上(海上)国造、下菟上(海上)国造の名があ
る。『先代旧事本紀』国造本紀によれば、成務の時、天穂日命八世の孫忍立
化多比命が初めて上海上国造に任じられた。また、胸刺国造に武蔵国造兄多
毛比命の児伊狭知直の名があり、『日本書紀』神功紀に伊狭知直は海上五十
茅とある。

律令制下の平城京にあって、天平二十年(748)従八位下海上国造他田日奉部
直神護の上奉した解文がある。これによると、海上国造は日奉部直氏で、他
田氏の父の系譜を引いて他田日奉部直という複氏を称していた。他田と日奉
部は供に敏達朝の訳語田(おさだ)宮に私部として置かれたものであった。

他田日奉部直神護の解文によると、神護は養老二年(718)から十一年間、兵
部卿藤原朝臣麻呂の位分資人として仕え、天平元年(734)から二十年間は藤
原光明子の中宮舎人として仕えたという。藤原麻呂は不比等の四男で京家の
祖になるが、まだ没落する以前のことであった。そして聖武天皇の皇后光明
子の舎人として仕えたという。

これを武蔵国に引きつけてみると、武蔵国衙のある府中市に近い日野市に、
武蔵国司として赴任した日奉宗頼が任期満了後、土着して武蔵七党武士団の
西(日奉)党始祖となった。もっとも、日奉宗頼が赴任した記録は武蔵七党系
図にしかなく、早く見積もっても十世紀中頃であろう。

中臣=藤原氏の氏神社の春日大社は和銅三年(710) から、藤原不比等によっ
て房総の鹿島神宮から武甕槌命神を勧請して創建された。その鹿島社の創建
は孝徳朝の白雉五年(685)であると、藤原不比等の三子で常陸国守として赴
任した藤原宇合かその部下の手になる『常陸風土記』に記している。

この鹿島神宮創建のとき、海上郡軽野等の海上国造の領地を一部割いて鹿島
社神郡とされた。海上郡には式内社はないが、鹿島神宮の境外摂社の息栖神
社は海上郡軽野、現在の鹿島郡神栖にあり、海上国造自身が鹿島・香取神社
の祭祀に関わっていたことを示している。日奉部は中臣=藤原氏の支配下に
あったのである。
武蔵国司の日奉宗頼が西(日奉)党始祖として土着した根拠地には、日野宮神
社が祭られたのは当然としても、日野七ツ塚古墳群と呼ばれる円墳が数箇所
点在し、それらは古墳時代終末期のものとされる。西(日奉)党の前身とは、
日奉宗頼が来る以前から日奉部としてそこにいたのではないか。

435多摩の多米氏/3HON- 2005/05/08 21:05 -


律令制になって多摩郡に置かれた国衙跡の近くから、「多寺」「□磨寺」と
刻された瓦が出土して、多摩郡の私寺「多磨寺」であろうといわれる。多摩
郡司大領大伴赤麻呂の名が『日本霊異記』に出てくる。

武蔵国は二十一郡あり、陸奥国三十五郡に次ぐ大国である。郡は五十戸を一
里として十六里以上を大郡とされた。多摩郡が大郡なら、大領の他に小領が
置かれたはずであった。武蔵国造兼足立郡司と並ぶほどの豪族多米連氏なら
ば、多摩郡司の大領か小領であった可能性もある。

もっとも『日本霊異記』には先の大領大伴赤麻呂の他に、多摩郡小河郷の人
で小領の正六位下丈直山継の名も出てくるのだが。

いずれにしても、多摩郡の多米連氏は外従五位下を授かる国司・国造級の立
場にあったというから、先にあげた『新撰姓氏録』や『多米宿禰本系帳』に
載るような、炊職や屯田司といった性格は、先祖伝説としてはともかく、律
令制下では似合わないことになる。少なくともそれ以外の性格も併せ持って
いたのではないかと考えられる。

ところで、多米氏の「多米」という語は、亀卜の際、亀の甲羅を焼いたとき
生じる「兆」を意味した。してみれば、多米氏とは亀卜の業をも所有した一
族だったのではないか。

多摩府中の国衙から見て多摩川対岸の向かいの丘の式内社大麻止乃豆乃天神
社に、神櫛眞智命が鹿占の神として祭られている。鹿占を別名太占という。

大和国十市郡天香山坐櫛真命神社と同神で、『古事記』の天岩戸隠れの段に、
中臣氏の祖神天児屋命布刀玉命が、天香山の眞男鹿の肩骨をもって占ったと
ある。『日本書紀』神代巻に中臣氏の祖神天児屋命は「太占卜事」をもって
仕えたとあり、天香山は「太占(ふとまに)」の聖地である。

亀卜と鹿占は同じ卜占でも異なる。鹿占の方が古く、亀卜は新しい。『日本
書紀』欽明紀十四年六月条に、百済からの五経博士の交代に際し、特に卜書
を要請しており、このとき亀卜の法が伝えられ、鹿占に取って換わったたと
見なせる。

武蔵国造の乱はこの十年前のことであった。乱に敗れた元の武蔵国造、多摩
郡にいた武蔵国造兄多毛比の子孫の族名は伝えられていない。多摩が多米な
ら、多米氏こそ子孫といえよう。

しかし、「多米」は、亀卜の「兆」を意味した。武蔵総社六所宮、現在の大
国魂神社の元は鹿占の神を祭る大麻止乃豆乃天神社といわれる。多米氏もま
た鹿占から亀卜へ転向したのか、あるいは畿内政権から派遣された国司が土
着した一人だったのか、、、

434多摩の多米氏/2HON- 2005/05/07 23:19 -


多米連は中央にもいて、『新撰姓氏録』には左京の他、摂津・大和・河内国
に三氏の多米連氏がおり、右京には多米宿禰氏が載る。

多米宿禰。神魂命神の五世孫、天日鷲命(あまのひわしのみこと)の後なり。
成務天皇の御世に、大炊寮(おほひのつかさ)に仕へ奉れるに、御飯の香美し
かりかれば、特に嘉き名を賜ひき。

多米連。多米宿禰と同じき祖。神魂命の五世孫、天日和志命(あまのひわし
のみこと)の後なり。成務天皇の御世に、炊職(みかしきのつかさ)に仕へ奉
りて、多米連を賜ひき。(左京神別)

また、『多米宿禰本系帳』等によると、神魂命五世孫の天日鷲命を祖として、
四世孫の小長田が成務朝に大炊寮に仕え、献上した御飯が香美であったこと
から多米連を賜姓し、詔して多米部も定めたとある。また、御田の職も兼ね
たという。さらに小長田六世孫の多米連三枝の子倭古の後裔が天武朝に多米
宿禰を賜ったとする。

これらの記録からすると、多米氏の職掌は炊職が動かないように見える。そ
して、御田の職も兼ねたていうから、故事付けてみれば屯倉を管轄したと考
えられる。そして仁徳即位前紀に出雲臣が屯田司(みたのつかさ)とされてい
ることが興味深い。

炊職といえば、元は膳(かしわで)氏の高橋氏が儀式の席次をめぐって安曇氏
と論争になったとき提出した『高橋氏文』によると、膳氏の先祖磐鹿六雁命
が総国で景行に共膳したとき、同席したのは武蔵国造の兄多毛比命と秩父国
造天上腹天下腹人であったという。それはまるで武蔵国造は炊職の多米氏で
あるかのような逸話である。

武蔵国造の乱によって敗退する以前の武蔵国造は多摩郡の兄多毛比の子孫で
あった。兄多毛比の系譜は『旧事本紀』の国造本紀によると、出雲臣祖名二
井之宇か諸忍之神狭命十世孫という。『日本書紀』にも武蔵国造は出雲臣祖
の天穂日命の後とあり、『古事記』は天菩比命の子建比良鳥命を祖とする。
いずれも武蔵国造が出雲臣の末であることは動かない。

この多摩郡の兄多毛比の子孫が足立郡の一族に負けて武蔵国造を奪われてか
ら、律令制になってからも多摩郡には有力な豪族の名は記録に現われない。

武蔵国造の乱後、そこに置かれた屯倉の一つが多米屯倉で、その屯田司が多
米連であったと考えられないか。それは律令制を敷いた畿内政権から派遣さ
れた多米宿禰であったかもしれないが、在地の兄多毛比の子孫と見なした方
が自然であろう。つまり、多摩郡司多米連氏である。

後に武蔵国造になった聖徳太子の舎人として仕えた物部連兄麻呂と同様に、
山背皇子の舎人として仕えた田目(多米)連である。

433多摩の多米氏HON- 2005/05/06 10:05 -


『日本書紀』安閑紀にいう武蔵国造の乱の結果、武蔵国に置かれた四箇所の
屯倉の一つに「多氷」がある。一般に「多氷」の氷は末の誤りと見なされて
「多末」つまり多摩とされる。

ところが吉田東伍の『大日本地名辞書』は、「多氷」の氷は米の誤りと見な
し、「多米」とする。その証拠とされたものは『続日本紀』延暦七年(788)
六月二十五日の記事である。

外従六位下武蔵宿禰弟総、外正八位上多米連福雄、並授外従五位下、以貢献也

武蔵宿禰弟総と多米連福雄は貢物を献じたので外従五位下を授ける、という
ことだが、武蔵宿禰はともかく、多米連にとっては破格の特進であった。

武蔵宿禰は武蔵国造の乱に畿内政権の援助を得て、多摩郡の元国造に勝利し
て足立郡に国造をもたらし、律令制下では足立郡司となった一族の子孫であ
る。それと並んで貢物を献じた多米連氏とは、郡司級の豪族と見なせる。し
かも、貢物を献じたとはいえ、外従五位下とは国司・国造級の位階である。
事実この七年後の延暦十四年(795)に足立郡司大領の武蔵宿禰弟総は武蔵国
造に補されている。

吉田東伍のあげた多摩の多米氏はこれだけだが、他にもないわけではない。

上の武蔵宿禰の元は武蔵国造物部氏であったが、国造になったのは聖徳太子
に舎人として仕えた物部連兄麻呂のときからであった。そして太子の子の山
背皇子の舎人に仕えたのが田目(多米)連とその女である。皇子の子に多米皇
子がいるが、おそらく田目(多米)連が養育した名負の皇子であろう。他に、
敏達と御食炊屋姫(後の推古)の間に生まれ、舒明の妃になった田眼(多米)皇
女もいる。

そんな多米氏とは、どのような氏族なのか。

432母系制あるいは「敗北の構造」3/3HON- 2005/04/28 23:08 -


坂東武士たちが鎌倉御家人となる以前から源氏に従臣していたという主張と、
異族を飲み込んで同族化したことは、正反対の現象だが、実は同根から出た
ものである。

いずれも、それ以前の自らの歴史を否定して、昔から現在の状態にあるとい
うことを当然としている。

これらの現象を記紀をはじめとして六国史に出てくる古代氏族の系譜を採取
して、実証的に証明したものが高群逸枝の『母系制の研究』と『招婿婚の研
究』である。高群の対象はあくまでも古代氏族であったが、坂東武士団を坂
東に生き残った氏族出身の集団と見なすと、同じことが繰返されたことが分
かる。

これを、おそらくは直感的な批評精神によって「敗北の構造」と見なし、接
木された異種の枝と樹があたかも一本の樹木であるかのごとき「グラフト国
家」と呼んだのは、1970年代初頭の吉本隆明であった。

それは「共同幻想」による単線的に国家像を脱して、被征服民が何故に征服
民に同化し、その歴史や宗教や規範をも自らのものと思い違える不可思議な
状態を説明してくれる。

それは古代の統一国家の成立ばかりでなく、源氏の鎌倉政権における坂東武
士たちの心情にも同一の精神構造をもたらしたものと見なすことができる。

その後の吉本隆明は、「敗北」以前の常民の姿を求めて南島沖縄へついたが、
そこまで付き合う義理も筋合いもない。

431母系制あるいは「敗北の構造」2/3HON- 2005/04/28 21:10 -


坂東武士たちが源氏に従臣したのは、頼朝と主従関係を結んで御家人となっ
てからである。それ以前はそれぞれ独立した武士団であった。その武士団を
形成するまで、いずれも急成長を遂げている。

成長の仕方は同一地域に一族とその子孫が増えていくのではなく、かなり広
範囲な地域へひろがっている。その全てが未開の荒地を開発したとは思えな
い広がり方である。

その広がり方は、そこに既に異族がいて、それを襲って奪い取ったか、平和
的に婿入りしたか、妻問いして子をなし、同族化したかである。つまり、古
代に氏族が大族化していくとき採った母系制による婚姻関係であった。

この母系制による婚姻関係は何も坂東武士団だけのものではなかった。畿内
政府から派遣された国司たちも、数年の任期を終えると他国へ転任する者が
多いが、そのまま土着してしまう者もいた。坂東八平氏の始祖になった平高
望は上総介として赴任し、武蔵七党横山党の始祖小野諸興は武蔵権介である。

彼らが土着するにあたっては、既にそこに居た異族とその女を媒介にしたは
ずである。流人の頼朝が伊豆の北条氏と政子を当てにしたように。

北条氏は源氏に飲み込まれることもなく、返って源氏の政権を簒奪したが、
それ以外の武士団は異族を飲み込んで同族化し、そして大きくなった。飲み
込まれた一族は、あたかもそれ以前から同族であったかのように、その系図
にすら記されることはなかったのである。

430母系制あるいは「敗北の構造」1/3HON- 2005/04/27 19:05-


鎌倉御家人となった坂東平氏や武蔵七党などの系図によると、彼らは頼朝の
挙兵以前、それも数代前の頼義・義家父子の奥州攻め、前九年・後三年の役
以来、源氏に従臣してきたことを誇らし気に記している。

彼らが源氏の奥州攻めに従軍したことは事実としても、それがそのまま源氏
の家来として従臣したことにはならない。奥州攻めのときの頼義・義家父子
はそれぞれ陸奥守であり鎮守府将軍ですらあったから、兵站基地の坂東から
兵を徴集する職務権限を有しており、彼らは軍役としてその命令に従って従
軍したにすぎない。

もしも彼らが源氏に従臣した家来であったなら、決して次のような事は起ら
なかったはずである。

後三年の役に活躍した一人に鎌倉権五郎景正がいたが、その子孫の大庭景親
は平氏に味方して、挙兵した頼朝軍を襲い、後に首を取られた。

武蔵七党の横山党は、始祖義隆の孫の經兼が奥州攻めに従軍して、安倍貞任
の首を従者と供に鉄釘で打ち付ける役目を仰せつかったにも関わらず、その
子の隆兼は、義家の孫為義の相模国愛甲荘の荘司を殺し、坂東五カ国から追
討されている。源氏の荘園であることを承知の上で襲ったのである。

これらの事件は明らかに彼らが源氏に従臣した家来でなかったことを示して
いよう。それにも関わらず、後世の系図が以前から源氏に従臣してきたかの
ごとき記すのは、単に先祖を飾るということだったのだろうか。

429儒教の差異HON- 2005/04/27 19:05 -


穂国幻史考管理人さん、こんばんは。

韓国の方とお付き合いがあるなんて、いい経験なさってますね。
それに、歴史を観念的にではなく、身の回りの事から見ていくのは
大切なことと思います。

儒教は中国や韓国と日本の場合とでは、かなり異なるように思います。

中国二千年の官学としての儒教も、明治はじめの清王朝と供に終っています。
わたしには具体的なことは判りませんが、韓国のそれは厳しい外婚制による
婚姻制度に根ざして存在してきたとすわれますから、極めて一般的で
日常的なものだったと思われます。 日本の場合は、それを受入れた時代によって異なり、
また儒教(朱子学)を学んだ者は一部の人で、
江戸時代なら武士階級と庄屋クラスの子弟に限られていましたから、
一般大衆には無縁のものでした。

面白いことに、明治はじめ清朝が滅んだころから、
近代日本では一般大衆の間に儒教的な観念が浸透しました。
徴兵と学校教育によってです。

その影響が日常的に現われたものが「家父長制」でしたから、
この「家」に対する抵抗として自然主義文学があり、
高群逸枝の母系制の研究もこの流れの中で生まれたものです。

徴兵制と学校教育の目的は近代天皇制の確立にあり、
家父長制はそのオマケみたいなものでしたが、
自然主義文学者などは「家」への格闘以上にはならなかった。
その背後の思惑が見えていなかった高群逸枝も母系制の研究を進めていって、
一時は天皇制に絡め取られた時期もありました。

428ありがとうございます穂国幻史考管理人- 2005/04/26 12:12 -


HONさん

 ありがとうございます。
 私自身、韓国語を覚えて二十年近く経ちます。
 また、地元の愛知大学三河民俗談話会には、中国人の周教授、韓国人の片助教授をはじめ、中国・韓国の留学生の方もよく顔を出します。
 会と言っても、会則があるわけでもなく、出席自由、学生無料、一般は,レジュメ代として三百円という非常に自由な会です。
 教授方は、イケル方も多く、散会後は、愛大付近の居酒屋で一杯ということになります。
 その一杯では、砕けた話も多くなるわけですが、一応、民俗ということで、そうした話で盛り上がります。
 これは、以前そうした中で、留学生の方の話から始まったのですが、上方の商家を舞台にした時代劇を見ていて、奉公人が、そこの娘さんとヨクなり、その奉公人が娘さんと結婚し、その店の主人になるというのが、当初は、理解できなかったそうです。
 これなどは、中国人・韓国人の儒教的規範からは、理解に苦しむ事柄のようです。
 最近の日中・日韓の問題も、根本的なところ、この儒教へのスタンスの違いがあるように思います。

http://www.joy.hi-ho.ne.jp/atabis/

427儒教と父系制HON- 2005/04/26 21:12 -


穂国幻史考管理人さん、こんばんは。

>母系制、関心があるテーマだけに興味深く拝読しておりました。

一人でも多くの方が母系制に関心を持ってもらえれば、
取り上げた甲斐があるというものです。
それにしても「儒教の発生」とは、ヒネたどころか、大問題ですね。

中国二千年を貫徹する精神文化の根底が儒教・儒学ですから、おろそかにはできません。
周知のことを復習すると、儒学が官学とされたのは秦の皇帝国家を滅ぼして
漢帝国を樹立した武帝の時代です。

群雄割拠の戦国・春秋時代、政治・外交上の必要から過去の事実に関する知識が要求され、
故事来歴・有職故実に通じる礼師が歓迎されました。歴史への関心ですね。

氏族社会は政祭一致でしたが、祭儀から政治を、宗教から倫理学を分離独立させた
政治倫理学派が孔子を開祖として後に儒教・儒学・儒家と呼ばれものになりました。

この儒家はまた様々な学派に分かれ、道家(道教)・法家などを生み出しました。
戦国・春秋時代を統一した秦の始皇帝は、法家を優遇して儒家を弾圧しています。

法家のやることは一種の戦術論で、天子を権力の源泉とする法治主義でした。
儒家はそれに対して天子を徳の根源とする修身治国平天下の家族主義です。
儒家の歴史への関心は、現に実力者である皇帝権力をも歴史的なものとして
その永遠性を否定しかねないものとして弾圧されたといえます。

漢の武帝が儒学を官学としたのも、 最早世界に唯一の皇帝が存在しえない時代だったからです。
帝王は実力で得るものではなく、世襲という歴史によって与えられる。
歴史家である儒家によって、その正当性を証明してもらわねばならなかったのです。

ここに父系制のカラクリというか、儒家が歴史に存えた理由が見出だせます。
氏族制を否定して儒教的律令制を取り入れて「日本」という国家を生み出したとき、
史(不比等)がはばを利かした理由も簡単なことです。

426また、ヒネた質問ですが、穂国幻史考管理人- 2005/04/26 12:12 -


 母系制、関心があるテーマだけに興味深く拝読しておりました。
 以前から、疑問に思っているのですが、儒教というのは、父系が強く現れていますが、氏族制から律令制という大陸の流れの中で、儒教の発生をご教授願いたく思います。
 またまた、ヒネた質問で恐縮しております。

http://www.joy.hi-ho.ne.jp/atabis/



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